神道とは何か

先日も少し触れたけれど、私の家系は神道だ。とは言え周りに仏教の家が多いし、お盆関係のイベントやお葬式では仏教形式のほうが馴染みが深い。

日常的に意識するのは葬儀だろうか。神道の葬儀は神葬祭、祭りなのだ。まあ違いといえばお坊さんではなく神主さんに来ていただくのと、数珠が要らないこと、お焼香の代わりに玉串奉納するくらいしか思い浮かばないが。その後も初七日だとか四十九日に相当する十日祭や五十日祭が行われるけれど、比較的簡素なことが多いように思う。

最近気になっていたのは仏教だと「法華経」などの経典があり、キリスト教には聖書があり、イスラム教にはコーラン(クルアーン)があり、それぞれ教義が定められている。これに対して神道はどうか。テキストらしきものは古事記とか日本書紀にあるような神話のたぐいだけではないか。そもそも仏「教」、キリスト「教」、イスラム「教」、神「道」だ。宗教じゃないのか?気になったので数冊本を読んでみたんだけれども、大変興味深かった。

やはり明確な教義というものはなくて儀式や祭りの作法が定められているだけのようだ。面白いのは仏教などが「こうしなさい」「これはしてはいけません」といった教えにより人を導いているのに対して、神道は元日にはこういう儀式をこういう作法でしなさい、といったシキタリが決まっている。例えば多くの宗教で「隣人を愛せ」という内容の教えがあるけれど神道にはそういう教えがない。だけど例えば神道の祭りを執り行うためには村中が協力する必要があって、結果として隣人を愛する必要がある。卵が先か鶏が先か、といった順序が神道だけ逆ではないか。おもしろい。

四季がはっきりしている日本では季節に合わせて生活を行い、季節の変わり目には祭りを行なってリセットする。ハレとケの考え方だ。ハレは文字通り晴れの日。元日などの祭日だ。ケはそれ以外の日常の日々。ケの日々を積み重ね、年末に身の回りを整えケを締める、つまりケジメをつける。そして元日のハレの日でリセットし新しい生活が始まる。あるいはケの繰り返しで消耗した状態を「ケ」が枯れる、汚れた状態とし、それをハレによってリセットする(だからハレの日は食事にせよ振る舞いにせよ豪華だ)。ハレとケを意図的に作り出し、繰り返すことで心身を律して行く、そういう考え方なのではないだろうか。

最近は豊かになったがゆえに、ハレとケの差が曖昧になった。普段から豪華な食事をして、正月だからといっておせち料理が好まれるわけでもない。この差がなくなったことが日本が豊かさを感じられず、幸せを実感できない現状につながっているのかもしれない。

Leave a Comment